清水観音の由緒

当、永昌山清水寺 別当 清水観音(堂)は、信達三十三観音第八番札所です。御本尊は「千手千眼観世音菩薩」で京都清水寺の観音像と同木同作と古い記録に残されております。今を去る約千二百年の昔、京都の清水寺にて大改修の折、この清水の地からも数本の大木を切り出し、寄進したとのことです。

その中の一本が素性が良く、仏師「行基」の目に留まり数体の御仏像が掘り出されたのです。延暦元年(782年)徳一大師により開眼なされました。記録によれば、大同5年(810年)人皇50代桓武天皇より蝦夷征伐の命を受けた坂上田村麻呂将軍が、この中の一体の御仏像を守り本尊として背負い出陣。陣中では、日夜、千手千眼観世音菩薩を信仰していたところ、ある日、霊験あらたかとなり観世音菩薩が空中に現れ、千の手から矢を放ち、さしも行く先を阻んでいた凶賊を鎮定する事ができました。のちに将軍が京都に向けての凱旋の途中、この清水の地に差し掛かったところ、観音様が大岩の如く重くなり、微動だもせず、一夜の野営をすることになりました。

すると、まだ夜も明けぬ頃、観世音菩薩が夢枕に立たれ「我この地に因縁あり、永く留まりて普く衆生を利済せん」(私はこの地に縁があります。この先永く留まって、この地の広くたくさんの人々を救い、導いてゆきたい)とのお告げがありました。そこで一宇(1つの寺院)を建立し、このお仏像を安置されたと伝えられています。

しかし、およそ480年前天分の頃、山火事により一朝にして将軍の建てられた堂宇は焼失。村人が御本尊の御仏像までもが焼失してしまったと悲しんでいた時、鶏の大きな一声があり、その方を見るとそこに鶏の姿はなく、大樹の下に猛火を逃れた観音像がありました。人々は菩薩さまが鶏に変化し猛火を飛び出して災いを逃れたのだと安堵しました。これにより、今でも例大祭の祝膳には、鶏肉は使用しないことと語り継がれています。この後も幾多の落雷等による山火事に遭い、御本体が焼けてしまった時の事、堂守の夢枕に、千手千眼観世音菩薩が立たれ、「我の焼けただれた姿が人々の目にふれることは、あまりに切なく、よって石の厨子(仏様の入れ物)を作り、その中に納めてほしい。その扉を開くのは、三十三年に一度とする」とのお告げにより、現在も観音堂「奥の院」に安置されています。

この時より御開帳は三十三年に一度とされ、近年では大正11年、昭和29年、昭和62年に御開帳法要が奉修されています。

例大祭は、陰3月18日、現在は毎年四月の第二日曜日に般若一会を厳修しています。

御開帳法要 
文化九年より始まり大正11年、昭和29年、昭和62年 記録上実施を確認
今回の御開帳法要は7回目に当たる 当たり年は令和2年、感染症流行の為、延期となっていた 

3年越しとなる令和5年5月19日~21日に実施予定

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